

Portrait of deceased person19. 2019.5
《Portrait of deceased per son19.》について
いまざき まひろの作品《Portrait of deceased person19.》 「青春の自爆テロ」について考えたこと
人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない (Jean-Paul Sartre)
「自爆テロ」とは「自爆によるテロリズム」である。テロリズムをWikipediaで引くと「政治的な目的を達成するために、暴力および暴力による脅迫を用いること」と出る。
「青春」とは、これもWikipediaからの引用で失礼するが、「生涯において若く元気な時代、主に青年時代を指す言葉」と出る。
それでは、「青春の自爆テロ」とは何を目的に、どういう表現をもって実演するべきものなのか。
いまざき まひろの「青春の自爆テロ」と銘打たれた作品は、媒体としては複数の場所で撮影された、ヌードを含む一連の写真である。
私自身、その作品の製作に同行していたが、終ぞその目的や意味を直接訊くことはなかった。ゆえに、評論形式でその真意を探求する。
「青春の自爆テロ」を表現するにあたって、いまざき まひろはいくつかの象徴的な手段を選択している。ヌード写真という手段はその代表である。 性とは若さ(青春)の象徴である。一方で、それだけでは「自爆テロ」の説明はつかない。何かの憤りや不条理、そうしたものを吹き飛ばすような力への意志、私が氏から感じたのはその類だった。
氏はヌードという手段をして、女性性や保守的な価値観からの「自爆」を図っていたのではないだろうか。氏自身の持つ、自らを縛る価値観と、青春期の理想との折り合い。その2つが板挟みになって疲労した現状を、力強い意志によって爆発的に解消したいという欲求を表現したのではないだろうか。
それでは、これらがテロリズムによって実現したい「政治的な目標」なのだろうか。
否、私はより実存的なものだと考える。
「政治的」というのは暗喩的な言葉だ。
フランス実存主義の哲学者であるサルトルは、「アンガージュマン(拘束)」という言葉を持って、知識人や芸術家の政治参加を促した。教科書的にはそう説明されるが、実際にはこの用語はより純粋哲学的な用語である。
サルトルは主体的な存在である人間のあり方を、「自由な選択により過去を乗り越え」、「現に存在している自己を否定しつつ」「未だ存在しないものを作り出していく」ものとした。
すなわち、主体的な存在としての人間のあり方とは、「自己の解放」と同時に、まだ存在しない目的への「自己の拘束(アンガージュマン)」なのだ。これは何を意味するかというと、現実に対して主体的に関わって生きることの重要さである。
「青春の自爆テロ」によって達成しようとしているのは、このアンガージュマンではないだろうか。「今の自己を否定しつつ」「未だ存在しないものを作り出していく」という実存主義的な姿勢の追求こそが、氏が根本的に求めている目的だと私は考えた。「死にたさ」「消えたさ」、そして上述したヌードによる表現は、「今の自己の否定」の段階であり、手探りで「未だ存在しないものを作り出していく」段階に辿り着こうとしているのではないか。
氏は昨今精神的に不調な状態にあり、死や自死について度々語っている。友として心配にはなるものの、一方で私はいまざき まひろを信頼している。その理由は、死へのエネルギーは同時に強力な生へのエネルギーでもあるからだ。現実から離れて空想的に生きていくのではなく、むしろ「死」のような強烈な現実性を持つ概念に向き合おうとする姿勢は、それだけ力強い生への、アートへの意志と同義だからだ。
製作に二日間も同行させていただいたいまざき まひろ氏に感謝を込めて、本評論の筆を置くこととする
kohei mishima
